先日観たドキュメンタリーでなぜかポール・ロブスンに目覚めました。うちにあるDVDを片っ端から見ております。こちらは『Cry, the Beloved Country / 泣け!愛する祖国よ (1951)』のゾルタン・コルダが監督。イギリス制作。というのも、この頃のロブスンはイギリスに移住していた。
という事で、若い人にはポール・ロブスンって?という方は居ないとは思いたいが、居るかもしれない。1898年にニュージャージー州にて牧師の家に生まれた。名家として知られるロブスン家。中でもポールは高校の時からスポーツに演技や歌、そして勉学にも優れ、高校在学中にアイビーリーグの一校であるラトガース大学の奨学金を学業優秀で獲得。ラトガース大に入学後も、スポーツと舞台と学問で活躍。ファイ・ベータ・カッパという成績優秀者だけが加入が認められるフラタニティにも所属。フットボールでも注目を集めていた。卒業する時には、卒業生総代にも選ばれた。その後はニューヨーク大学の法学部に進むが、最終的にはコロンビア大の法学部に進む。その頃には、NFLのチームで戦い、そして舞台にも立っていたという。この頃に後の夫人となるエスランダと出会い結婚。コロンビア大の法学部を卒業する頃にNFLは引退。法律家を目指すも、差別が酷かったので挫折。その後に劇作家のユージン・オニールに出会い、彼の舞台に出演。舞台『皇帝ジョーンズ』は、オニールのそしてロブソンにとっての代表作にもなった。その後にはブラックムービーのゴッドファーザーであるオスカー・ミショーの『Body and Soul / 日本未公開 (1925)』に出演し、映画デビューを果たした。その後も映画と舞台にて活躍。『Show Boat / ショウ・ボート (1936)』で歌った「オールマン・リバー」は今でも歌い継がれる名曲である。舞台『オセロー』で初めて黒人俳優がオセロー役を演じる事が許されたのが、ポール・ロブスンだったのだ。しかし、ハリウッドの赤狩りと言われる共産主義者への執拗なまでもな迫害が行われていた40年代後半から50年代に掛けて、ポール・ロブソンは仕事をどんどん奪われた。しかもロブソンは隠れもしなかった。彼は堂々とロシアをはじめとする国から招待されれば出向き、人々のために歌った。戦争が続いていたスペインで、彼が出向き歌った事で戦争が2日間止んだ事さえあった。1927年から1939年の12年間はロンドンに移住。イギリスでも多くの映画や舞台に出演。この時代の映画が割りと今でも観られている。そしてハリウッドでの赤狩りが益々強まる中、ロブスンはパスポートを取り上げられてしまう。この頃の稼ぎの主であった外国でのコンサートが出来なくなってしまったのだ。1958年にはようやくパスポートが戻されるが、数年後の1961年には自殺未遂をしている。心身共に疲れきっていた。1963年には半引退しており、たまに公民権運動のイベントに参加するようになった。1965年にエスランダ夫人が他界し、姉妹の家に住むようになる。1976年に姉妹の家があるフィラデルフィアにて心臓発作で他界。77歳だった。
と掻い摘んで書いてもこのように長くなるロブスンの略歴。凄いよね。映画の歴史でも語られるし、昔に読んだ「人種とスポーツ」っていう本でも彼はたっぷりと語られていて、凄さを改めて知った。日本には音楽家としてのポール・ロブスンを好きな人だってウンといるだろうし...
と、この映画の事... ゾルタン・コルタが監督だし、なんてたってロブスンが出ているから面白くない訳がない!と思っていたけど、正直イマイチ。ロブスンはこの頃アフリカの歴史とか文化に興味があって、それを描写できればと出演を快諾したけれど、ロブスンが映ってない所は、勝手に後で手直ししちゃって、ロブスンが思っていたような作品じゃなかったらしい。酷いわね。ロブスンは完成披露会で頭来て、途中で劇場出たらしいからねー。しかもどうにか公開されないように色々と試みたっていうからね。何ていうか、アフリカ=ジャングル!っていうステレオタイプ的なのがね。もうね、オープニングの長ーーーい文字説明から、あれれ?と思ったもの。「俺達イギリスの白人様に野蛮なアフリカを任せておけ」だよね、結局。おいおいですよ。こんだけの人たちが出ていて、これ?っていう。ロブスンの奥さんを演じたニナ・メエ・マッキニーが最高に美しい。他の映画で見た時よりも、この映画での彼女が一番綺麗だった!この人についても語りたいけど、次回機会があったらまた。そしてこの映画にはケニアの初代大統領ジョモ・ケニヤッタが酋長役でカメオ出演しているのでお見逃しなく。
(4点/5点満点中:7/6/14:DVDにて鑑賞)