ジム・ブラウン追悼
ジム・ブラウン追悼
ジム・ブラウンが逝ってしまった。最近やっと2年越しに『One Night in Miami / あの夜、マイアミで (2020)』の感想をようやくアップしたばかりで、その締めに「ジム・ブラウン以外は、どんなに願ってももう会うことができない」と書き記した。その3日後の2023年5月18日にジム・ブラウンはこの世界に色んなものを遺して去ってしまった。もう『あの夜、マイアミで』の4人にどんなに願っても実際に会うことはできない。
私にとってジム・ブラウンはとにかくカッコいい人。と書いてしまうと、そのルックスやたくましい肉体的なものだと思われてしまうが、そうではない。色々なバリアや壁をぶち壊したカッコいい人だった。
アメリカンフットボールが大好きで、中でもジム・ブラウンもそうだったランニングバックというポジションが大好きで、仲間のブロック援護もあって相手のタックルをかわし、針の小さな穴に糸を通すように颯爽と駆け抜ける姿は何とも言えない爽快感を私に与えてくれる。その中のトップ、いやトップ・オブ・ザ・トップ、ベスト・オブ・ザ・ベストと言えるのがジム・ブラウン。NFL100年以上の歴史でも、未だに破られていない1ゲーム100ヤード以上平均ラッシングなどの記録保持者である。恐るべき伝説である。
アメフトでも大学時代については、ジム・ブラウンの後輩を描いた『The Express / エクスプレス 負けざる男たち (2008)』でも明らかになっているが、ジム・ブラウンの功績なくして後輩アーニー・デイヴィスの黒人選手初となるハイズマン賞(大学アメフト最優秀選手賞)獲得はないだろう。もちろんジム・ブラウンもデイヴィス同様の活躍をした。が... なぜ獲得できなかったのかは、『エクスプレス』を観てもらえば分かる。
しかもアメフトだけではなく、ラクロスでも伝説の人物。こちらの競技は詳しくないが、確かこのラクロスでも凄い選手過ぎで、大学で奨学金を貰っている筈。そして確か未だにこちらでも記録が破られていない筈で殿堂入りしている(筈という不確定情報が多くてごめんなさい)。
NFLでは、クリーブランド・ブラウンズに所属。1年目にはルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。近年は強いチームとしては知られていないが、ジム・ブラウンがいた頃は、プレイオフに進出し、優勝も果たしている。そのゲームでは114ヤードも走っている。
そして優勝した次の年に引退。優勝した年辺りから、ジム・ブラウンは映画に出始めたのである。選手として優勝してピークを極めていた時の引退は誰もが驚いた。が、その後の映画での活躍も目を見張るものだった。リー・マーヴィン、ロバート・ライアン、ジョージ・ケネディ、チャールズ・ブロンソン、アーネスト・ボーグナインなどという錚々たる俳優とともに出演した『特攻大作戦』(67年)で注目を集め、徐々に主演男優としての地位を確立する。『100 Rifles / 100挺のライフル (1969)』では、ラクエル・ウェルチとのラブシーンが異人種間初となり壁を破った。そして時代はブラックスプロイテーションのブームがやってくる。
公民権運動の60年代に、キング牧師、マルコムX、メドガー・エバースというヒーローたちが凶弾で次々と暗殺され、黒人の人々は絶望的であった。そんな中、町の黒人ヒーローが暴力や抑圧にも屈せず悪い者たちをやっつける.... という単純明快なストーリーによって作られたブラックスプロイテーションのブームがやってくる。実社会では無理でも、スクリーンで黒人の鬱憤やストレスを発散させたのだ。ブラックスプロイテーション・ブームは、ジム・ブラウンにとってスポーツで培った身体を生かせる絶好の機会であった。多くの観客は、ジム・ブラウンがアメフトの時と同様に悪人をメッタメッタと縦横無尽に倒していく強さに夢中となり憧れとなる。『特攻野郎Aチーム』のミスター・Tは、そんなジム・ブラウンに憧れ、アメフトを始めた程である。その中でも特に続編も作られた『Slaughter / シンジケート・キラー (1972)』が彼の代表作だろう。中期には他のブラックスプロイテーション・ヒーローたちと組んだ『Three the Hard Way / ハードウェイ (1974)』や『One Down, Two to Go / ザ・リボルバー/怒りの38口径 (1982)』などにも参加し、存在感をアピールしていた。80年代に入ると、そのブラックスプロイテーションのパロディ『I'm Gonna Git You Sucka / ゴールデン・ヒーロー/最後の聖戦 (1988)』に出演し、いつもの硬派な雰囲気とは違うコミカルな一面も見せてくれ、ティム・バートン監督の『マーズ・アタック!』などでその一面を覚えている方も多いことだろう。
また友人だったリチャード・プライヤーが開設した映画製作会社インディゴの社長を任されたのがジム・ブラウンだ。コロンビアから当時破格となる40ミリオンドルを出してもらい製作したのが、リチャード・プライヤーが監督まで務めた自身の半自伝『Jo Jo Dancer, Your Life Is Calling / ジョ・ジョ・ダンサー (1986)』。だが、興行成績が上手くいかず、会社も潰れ、2人の友情もなくなってしまった。
そして『He Got Game / ラストゲーム (1998)』出演を機に、スパイク・リーと交流を深め、『She Hate Me / セレブの種 (2004)』や『Sucker Free City / 日本未公開 (2004)』というスパイク作品にも出演している。そしてなんといってもスパイクが監督した『Jim Brown All American / 日本未公開 (2002) (TV)』だろう。スパイクがジム・ブラウンの全てを余すところなく追ったドキュメンタリー作品である。余すところなく過ぎで、彼の陰の部分も明らかになっており、鑑賞後は正直戸惑うのが本音である。タイトルが示す通り、彼は紛れもないオール・アメリカン。スポーツでの記録という意味だけではなく、悪い意味でアメリカという国に翻弄された人生だったのがこの作品で分かる。
ジム・ブラウンは、激動の時代を駆け抜けた。『あの夜、マイアミで』で描かれたように、無意識にあるいは意識的に差別を受けてきたことだろう。私が一番好きな写真がこれ☟。モハメド・アリ徴兵拒否の際に、NFLやNBAなどのアスリートたちが集まってアリ支援を発表した時の写真。アリの隣を陣取ってマイクが傾けられており、どう見てもこのグループのリーダー的存在であるのは確かである。どんな時にも声をあげ、そしてその中心にいた。
『Any Given Sunday / エニイ・ギブン・サンデー (1999)』撮影時に役に入り込んでしまったジェイミー・フォックスとLL・クール・Jに喧嘩が勃発してしまったが、ジム・ブラウンが軽く収めた逸話がある。90年代にギャング同士の抗争が激化したロサンゼルスで、クリップスとブラッズの和解に乗り出したのもジム・ブラウンだった。
普通の人は喧嘩の仲裁など中々できることではない。ジム・ブラウンには、少なくとも良くしようというする意志とそれに伴う行動力もあった。ただ、彼も人間であった。弱い所やダメな所はあって、彼を全面的に崇めようとは思っていない。だが彼の功績を忘れようとも思っていない。ジム・ブラウンは、彼が演じてきたブラックスプロイテーションのヒーローのように、町の黒人ヒーローになろうとはしていたのだ。安らかに。そして(彼の自伝映画という形で)また会えると信じている。