史上最悪のアカデミー賞
という訳で、私がわざわざ書かなくても結果は日本のニュースでご存じの事と思います。そして、そのオスカーの式典で何が起きたかという事も、オスカーの生中継を見ていなかった方でも、朝のうるさい情報番組でご存じの事と思います。
私が許せないのが「白すぎオスカー払拭 黒人受賞」という見出しだ。本気でそう思っているのだろうか?黒人が受賞したら、それで払拭されるものなのだろうか?私はハッキリと覚えている。2002年の事だった。デンゼル・ワシントンが『Training Day / トレーニング デイ (2001)』で主演男優賞を、ハリ・ベリーが『Monster's Ball / チョコレート (2001)』で主演女優賞を取り、黒人が主演部門を独占という歴史に残る年だった。更には『Lilies of the Field / 野のユリ (1963)』で黒人として初の主演部門を受賞したシドニー・ポワチエが功労賞を受賞したのも2002年だった。あの年のオスカーは黒人にとって随分と希望に満ち溢れた年であったと記憶している。しかし、数年経てば、やっぱりいつものオスカーであった。次の年の2003年は『シカゴ』のクイーン・ラティファのみがノミネート。音響や衣装など、所謂裏方さんもゼロ。2004年は『イン・アメリカ』のジャイモン・フンスーと『Tupac: Resurrection / トゥパック レザレクション (2003)』がノミネートされただけだった。酷いのが2011年、ゼロだった。この年、チャド出身マハマット=サレー・ハルーンの『A Screaming Man / 終わりなき叫び (2010)』がカンヌ映画祭で審査員賞を取ったのに、アカデミー賞の外国語部門にノミネートすらされなかった。
去年、#OscarsSoWhiteの声が挙がったこと、実は懸念していた。そういう声が挙がったから、黒人は取ったのだと言われるのに決まっているからだ。分かっていた。でも、なぜ彼らが声を挙げたのか?アメリカは声を挙げないと聞いてもらえないからだ。日本の「空気読め」は、アメリカでは通用しない。
私は「黒人は歴史的に報われていないし、差別があるのだから、オスカーよこせ!」と書いている訳じゃない。映画を愛する者として、ただ単に順当に総ての人が評価されて欲しいと願うだけだ。ジェイミー・フォックスが『Ray / レイ (2004)』で主演男優賞を受賞した2005年、フォレスト・ウィッテカーが主演男優賞を獲得した2007年、『12 Years a Slave / それでも夜は明ける (2013)』が作品賞を受賞した2014年は、そんな年だったと記憶している。やれば出来る年だってあったのだ。
今年のオスカーだって、認められるべき人が認められてはいるが、やっぱり少し変。ネイト・パーカーが裁判で争って無実となったレイプ事件は許されなかったが、ケイシー・アフレックの示談金で和解し事実は闇の中となった女性強姦事件は話される事もなく許された。それこそ白人の特権というものではないのか?今年のオスカーが行われた日、5年の命日となったフロリダ州で丸腰にも関わらず男に殺された青年トレイヴォン・マーティンの犯人は、裁判で無実になった。その時、犯人を支持した人々は「裁判で無実となり法が決めたんだから無実!」と言っていたのではなかったのか?ダブルスタンダードって奴だ。
オスカーの前に発表されたNAACPのイメージ・アワードで主演男優賞を獲得したデンゼル・ワシントンは受賞スピーチでこんな事を話していた。「私よりも若い世代が活躍してくれるのは嬉しい。特にバリー・ジェンキンス!バリー・ジェンキンス監督は、『ムーンライト』を作る機会を得るためにショート映画10作以上作らねばならなかった。諦めないで欲しい。簡単な事じゃない。みんな簡単じゃない事を乗り越えて、ここまで来たんだ。簡単だったらデンゼル・ワシントンなんて存在していない。七転び八起きっていうだろう。失敗しても立ち上がってまた作る事が大事なんだ。頑張り続けて、勉強を続けてくれ、撮影で会おう」
文字通り、デンゼルが若い業界への子たちへの励ましメッセージである。しかし、黒人が如何に人一倍頑張らないといけないかを物語っている。苦難を乗り越えてがんばったこそ、今回の受賞がある。これだけはハッキリと書いておく。今年のオスカーは「白すぎるオスカーを払拭した訳じゃない」し、黒人の芸術家たちが「簡単じゃない事を乗り越えて頑張った結果」だという事を。